阪神・淡路大震災から30年(国際コミュニケーション学科 髙野盛光)
研究室からこんにちは(短期大学)
17日朝、短大に出勤する車の中で聞いていたラジオから今年で阪神・淡路大震災から30年になるとのニュースが流れてきた。その中で語り部の方々の高齢化が進んでいること、担い手も減っていることが指摘されていた。一方で若い人たちの中に新しい語り部世代が生まれていることも取り上げられていた。
それを聞きながら、『関西で暮らしているわたしの両親が被災したのは今のわたしとほぼ同じ歳の時だったのか』とも『もう30年も前のことになるのか』ともとりとめもなく考えていた。
2年前の短大ブログの記事「阪神・淡路大震災から28年」(2023-01-26 13:02)では
1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とする阪神・淡路大震災が発生した。
当時わたしは岐阜県内の私立短期大学に勤務しており、前日は短大に泊まり込んでいた。泊まっていたのが5階であったため結構な揺れを感じ「ついにこの地域でも大地震か!? 」とビックリして飛び起きた記憶がある。さいわいにもこの間警鐘が鳴らされている東海地震ではなかったため再度眠りについたが、驚くことになるのはそれほど先のことではなかった。
と書き始め、
引っ越しの際の荷物に紛れてしまったために今確認できないのだが、震災直後に父が送ってきた2枚の写真には大学卒業まで家族と暮らしていた市営住宅の壁面に出来た大きなひび割れと自衛隊による給水活動が写っている。また震災後はじめて訪ねた親友宅の壁には震災のときに出来た大きなひび割れが残っていた。この文章を書きながら小学校時代同じクラスだった級友の実家の牛小屋が倒壊して牛が死んでしまったと父から聞いたことも思い出した。
1月17日の朝、ふっと思い出したことを取りとめもなく記してみた。
と締めくくっている。
2023年に書いたブログ記事では、①朝のあいさつのために向かった事務室で長田区の火災現場をみたこと、②当初実家、親友宅に連絡を入れようとするも連絡がつかないことに苛立ちをおぼえていたこと、③その後友人の実家に最初に連絡がつき、実家、親友にも当日中に連絡がついたこと等について触れている。
両親をはじめとする家族あるいは震災当時被災地にいた友人たちと震災について何かを話した記憶は、震災後にはじめて会ったときに「大変だったんやね」と話した以外には、実はほとんどない。その意味では、身近に被災した当事者がいるにもかかわらず、新聞、テレビ、ラジオ等を通じて間接的にあの震災について知っている多くの人々とわたしは何ら変わりない。そんなわたしが阪神淡路大震災について貴重な知見を得たデジタルアーカイブが神戸大学附属図書館デジタルアーカイブの中のひとつである「震災文庫」である。このデジタルアーカイブには今なお阪神淡路大震災関連の資料があらたに登録され続けている。
また、今回ブログを書くにあたり他に阪神淡路大震災関連のデジタルアーカイブがないかとあらためて検索したところ、阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センターが運用しているサイトを見つけた。こちらにある「震災資料リンク集」では多くのサイトが紹介されており、先の「震災文庫」も含まれている。
阪神淡路大震災以降も東日本大震災、熊本地震、能登半島地震をはじめとする地震だけではなく、豪雨の災害も少なからず発生している(saveMLAKのサイトでも確認できる)。防災情報・知識の共有・理解、継承のためにも災害関連の(デジタル)アーカイブをぜひ一度のぞいてみてください。
それを聞きながら、『関西で暮らしているわたしの両親が被災したのは今のわたしとほぼ同じ歳の時だったのか』とも『もう30年も前のことになるのか』ともとりとめもなく考えていた。
2年前の短大ブログの記事「阪神・淡路大震災から28年」(2023-01-26 13:02)では
1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とする阪神・淡路大震災が発生した。
当時わたしは岐阜県内の私立短期大学に勤務しており、前日は短大に泊まり込んでいた。泊まっていたのが5階であったため結構な揺れを感じ「ついにこの地域でも大地震か!? 」とビックリして飛び起きた記憶がある。さいわいにもこの間警鐘が鳴らされている東海地震ではなかったため再度眠りについたが、驚くことになるのはそれほど先のことではなかった。
と書き始め、
引っ越しの際の荷物に紛れてしまったために今確認できないのだが、震災直後に父が送ってきた2枚の写真には大学卒業まで家族と暮らしていた市営住宅の壁面に出来た大きなひび割れと自衛隊による給水活動が写っている。また震災後はじめて訪ねた親友宅の壁には震災のときに出来た大きなひび割れが残っていた。この文章を書きながら小学校時代同じクラスだった級友の実家の牛小屋が倒壊して牛が死んでしまったと父から聞いたことも思い出した。
1月17日の朝、ふっと思い出したことを取りとめもなく記してみた。
と締めくくっている。
2023年に書いたブログ記事では、①朝のあいさつのために向かった事務室で長田区の火災現場をみたこと、②当初実家、親友宅に連絡を入れようとするも連絡がつかないことに苛立ちをおぼえていたこと、③その後友人の実家に最初に連絡がつき、実家、親友にも当日中に連絡がついたこと等について触れている。
両親をはじめとする家族あるいは震災当時被災地にいた友人たちと震災について何かを話した記憶は、震災後にはじめて会ったときに「大変だったんやね」と話した以外には、実はほとんどない。その意味では、身近に被災した当事者がいるにもかかわらず、新聞、テレビ、ラジオ等を通じて間接的にあの震災について知っている多くの人々とわたしは何ら変わりない。そんなわたしが阪神淡路大震災について貴重な知見を得たデジタルアーカイブが神戸大学附属図書館デジタルアーカイブの中のひとつである「震災文庫」である。このデジタルアーカイブには今なお阪神淡路大震災関連の資料があらたに登録され続けている。
また、今回ブログを書くにあたり他に阪神淡路大震災関連のデジタルアーカイブがないかとあらためて検索したところ、阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センターが運用しているサイトを見つけた。こちらにある「震災資料リンク集」では多くのサイトが紹介されており、先の「震災文庫」も含まれている。
阪神淡路大震災以降も東日本大震災、熊本地震、能登半島地震をはじめとする地震だけではなく、豪雨の災害も少なからず発生している(saveMLAKのサイトでも確認できる)。防災情報・知識の共有・理解、継承のためにも災害関連の(デジタル)アーカイブをぜひ一度のぞいてみてください。