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阪神・淡路大震災から28年(国際コミュニケーション学科 髙野盛光)

研究室からこんにちは(短期大学)
1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とする阪神・淡路大震災が発生した。

 当時わたしは岐阜県内の私立短期大学に勤務しており、前日は短大に泊まり込んでいた。泊まっていたのが5階であったため結構な揺れを感じ「ついにこの地域でも大地震か!? 」とビックリして飛び起きた記憶がある。さいわいにもこの間警鐘が鳴らされている東海地震ではなかったため再度眠りについたが、驚くことになるのはそれほど先のことではなかった。

 9時前に朝のあいさつのためにむかった事務室に入るやいなや「髙野君、おうちの方は大丈夫か! 」との事務局長の声が飛んできた。何のことか分からず付いていたテレビの画面を見たわたしの目に飛び込んできたのは、その後テレビで何度も目にすることになる神戸市長田区の住宅街が燃えている映像であった。ただし映像を見て長田区であると認識したわけではなく、アナウンサーの声を聞いてはじめて長田区だと分かった。

 当時は今よりもまだ設置数のあった公衆電話で掛けても携帯電話(当時持っていたのがPHSだったかガラケーだったかはよく覚えていない)で掛けてもまったく繋がらない。実家に掛けても小学校以来の親友宅に掛けても親友の実家に掛けても状況はまったく一緒で、家族や親友の安否が確認できないことに苛立ちをおぼえた。

 最初に連絡がついたのは親友の実家だった。お母さんが出られて無事をうかがえてホッとした際におっしゃられたのが「こちらからは掛けられず外からの電話を受けることだけよ」との言葉だった。どちらに先に連絡がついたかはもう忘れてしまったが親友宅、実家にも震災当日に何とか連絡がつき、安否を確認できたことにホッとしたことを記憶している。

 その年のゴールデンウィークだか盆だったかは父から「まだ片付いていないから帰ってくるな」と言われたため、震災後に実家に帰省できたのはまだ先のことであった。
 
引っ越しの際の荷物に紛れてしまったために今確認できないのだが、震災直後に父が送ってきた2枚の写真には大学卒業まで家族と暮らしていた市営住宅の壁面に出来た大きなひび割れと自衛隊による給水活動が写っている。また震災後はじめて訪ねた親友宅の壁には震災のときに出来た大きなひび割れが残っていた。この文章を書きながら小学校時代同じクラスだった級友の実家の牛小屋が倒壊して牛が死んでしまったと父から聞いたことも思い出した。

1月17日の朝、ふっと思い出したことを取りとめもなく記してみた。