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ナジ・J・エンドレ『ほろ苦いきずな―カール・ポランニーと マイケル・ポランニー』(2018)より

研究室からこんにちは(短期大学)
現在標記の本を鋭意翻訳中です。世界的に著名なポランニー兄弟についての評伝です。その序文冒頭を以下にご紹介します。

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本書は世界的に紛れもなく著名な二人のハンガリー人学者の足跡を示すことを意図している。二人とも同化ユダヤ人家庭のポラチェク家の出身で、子どもたちは出生時すでにハンガリー風に命名されていた。カール・ポランニー(ポラーニ・カーロイ)は1886年にウィーンで、マイケル・ポランニー(ポラーニ・ミハーイ)は1891年にブダペストで生まれた。他に兄と姉妹がある。長男ポラーニ・アドルフ(1883-1966)は二十世紀初頭の社会主義青年運動で際立った働きをし、長女のポラーニ・ラウラ(1882-1957)は自身も社会活動家で、娘はシュトリケル(後のゼイシェル)・エーヴァ(1906-2005)である。ラウラは1936年にソビエト連邦当局に連行され、釈放後その当時の体験をアーサー・ケストラー(ケストレル・アルトゥール)に告白したが、ケストラーはこれを彼の作品『真昼の暗黒』に取り入れている。家系図をさらに広げてみても著名な人びとが見出される。従兄にはマルクス主義の理論家で図書館司書、そして革命家のサボー・エルヴィン、また、後にルカーチ・ジェルジュの不幸な恋人となるゼイドレル・イルマがいた。ポラチェク・マティルドは有名な彫刻家ヴェドレシュ・マールクの妻となった。母ツェツィル・ヴォールは亡くなるまで自宅で文学サロンを開き、そこにはハンガリー文学を代表する作家たちが皆足を運んだ。

カールは大学で法律を学び、父が亡くなった(1905年)後は叔父の事務所で弁護士修習を続けた。1908年にはガリレイ・サークルの初代委員長に選出され、弟のマイケルはそのメンバーであった。マイケルは最初大学医学部を出て、その後カールスルーエに化学を学びに行った。第一次大戦の間に熱力学第三法則についての論文を書き、それをカールスルーエ大学に送った。しかし、大学の教授は論文のテーマが自分の専門外だと思い、それをアインシュタインに回したところ、マイケルの論文はアインシュタインから大変な高評価を受けることとなった。「やった! 学者として推挙してもらえた!」とマイケルは後に述懐している。ハンガリー・ソヴィエト共和国時代(1919年)にはマイケルだけが志願兵役を拒否した。共産主義時代に兄弟二人ともウィーンに亡命した。
カールは1933年までウィーンにとどまり、その後イギリスへと渡った。ウィーンではすでに経済学に没頭し、ルードウィッヒ・フォン・ミーゼスやファリックス・ヴァイル、ヤーコプ・マルシャックといった人びとと議論を戦わせた。1933年にイギリスに移住し、そこでキリスト教社会主義者集団のメンバーに加わることになる。カーロイはウィーンで知り合ったイレーネ・グラントを通じて、ジョセフ・ニーダム、ジョン・マクマレイ、そして、ラインホルド・ニーバーたちと論争相手というよりむしろ仕事仲間といった間柄であった。
マイケルはウィーンからベルリンへと移り、カイザー・ヴィルヘルム研究所で研究室のリーダーとなり、その間に物理化学者としてヨーロッパ中にその名を轟かせる存在となった。このときの研究成果により、1933年にマイケルは化学学科長としてマンチェスター大学に招聘されることとなった。そこに1948年までとどまったが、1930年代から徐々に科学理論に関心を持つようになり、その頃オックスフォード大学の科学理論学科の主任研究員となる。そこで生涯の主著となる『個人的知識』(1958年)を完成させた。
その間カールは経済史という畢生のテーマを見出し書き上げたのが、最初はイギリスで、ついでアメリカで出版された画期的な著作『大転換』(1944年)である。同書は後に8カ国語に翻訳され、その影響は今日に至るまで国際的な専門文献の中に見て取ることができる。カールは1947年にコロンビア大学の客員教授となり、そこで彼の助手や学生たちとともに経済人類学という新たな学問のパラダイムを発展させた。その成果は『古代帝国の交易と市場』(1957)として出版された。晩年は平和的共存 Co-existence の提唱者となり、同タイトルの雑誌を創刊している。1963年には祖国ハンガリーを訪れ、科学アカデミーで講演をしたその翌年の1964年に逝去した。マイケルは1976年に亡くなっている。

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書名の「ほろ苦い」というのは兄弟の思想的対立のドラマのことです。これが本書のスリリングなテーマになっています。気になる方は本書の刊行をお待ち下さい。

国際コミュニケーション学科 三苫民雄