ブログ

eラーニングシステムの光と影

研究室からこんにちは(短期大学)
英語教員養成コース担当の髙野です。

「いつでも」、「どこでも」が通信教育のメリットとして語られています。今回はそれをめぐってみなさんと一緒に考えてみたいと思います。

教育において「いつでも」、「どこでも」学べることそのものは決して悪いことではないと考えられます。否、積極的に守り続けていくべきものであると考えられます。わたしもそのことに同意します。わたしたちの歴史における「近代化」あるいは「市民社会の形成・発展」において、教育を受けることを人権として勝ち取ってきたことは、わたしたちが後世に対して誇っていいことであると同時に後世に伝え続ける責務を負っているものの1つに挙げられるべきものであるとわたしは思います。ただし以下のことについては一度冷静になって考えてみるべきでしょう。

eラーニングシステムは通信教育においては「いつでも」、「どこでも」を保証するための1つの有効な手段です。ただしあくまでも1つの手段に過ぎません。eラーニングシステムを活用した教育システムなんてたかだかここ数十年のことに過ぎません。予習、授業、復習においてeラーニングシステムを活用することは学習支援の点では有用です。しかしながら先にあくまでも1つの手段に過ぎないと言ったように他にも有用な手段は存在しており代替可能です。郵送でレポートのやり取りをすることでも成立するのです。あちらの科目はeラーニングで学んだけれども、こちらの科目は手書きのレポートを提出してみたというひともみえるのではないでしょうか。またeラーニングシステムは通信教育では結構市民権を得ていると言ってもいいかもしれませんが、通学課程ではそうではないですね。なぜでしょうか。それは教育において本質的なことは「どのようなスタイルで学んだか」、「何を学んだか」ではなくて「学びの過程において学ぶ側と教える側との間でどのように対話がおこなわれたか」であり、そのことが実現されれば何だっていいからです。このことについてさらに知りたいひとは内田樹さんの『先生はえらい』を一読してみてください。

教育現場にいるものが実感していることの1つに「こうすればすべての学習者が『分かった』と納得してくれるやり方なんて存在しない」ということがあります。通学課程あるいはスクーリングでは学習者の反応をみながら教える側は常に微調整をおこなっています。微調整をおこなわずに誰に対しても同じことを口にするだけの、あるいは、「いい評価なんて目指さなくても単位さえ取れれば十分だ」とか、「短大では高度な勉強をしなくてもいい」なんて事を口にする教員を喜んではいけませんよ。そのひとが宣言していることは「目の前に誰がいようともワタシ/オレは自分が言いたいことを一方的に話す」、「短大での学びにオリジナリティなんていらない。他の人ができる事と同じレベルでいい」という学習者に対する不誠実さかつ学問に対する冒涜・侮蔑なのですから。eラーニングシステムのよさの1つに先に挙げたように「いつでも」、「どこでも」を実現する有効な手段であることがあります。しかしながら反面、学習者ひとりひとりに対応することが困難(不得意)であることもあるのです。そして「学習者ひとりひとりに対応することが困難」である結果、ひとりよがりな授業をするものと同じような授業をしてしまうことになるリスクがあります。そのリスクを避ける方法は学習者が積極的に質問をおこなうことです。ただしその際に答えそのものをズバリ質問することは禁じ手ですので気をつけましょうね。

さらにeラーニングシステムの便利さゆえに陥りやすい問題点に「質問が来たらすぐに回答を返せ」というむちゃ振りがあります。このことについては機会があれば稿をあらためて取り上げてみたいと思います。