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歴史からみるシルクロードのロマン

研究室からこんにちは(短期大学)
1. はじめに
今回は、歴史を取りあげたいと思います。遥かシルクロードに思いを馳せましょう。シルクロードは「絹の道」と呼ばれていますが、もともとドイツの地理学者リヒトホーフェンが『シナ』の中で名づけたものです。史料として残っているものは少ないですが、紀伝体の最高傑作と称される司馬遷の書いた『史記』(現代語訳 大木康 ちくま新書)を手がかりに見ていきたいと思います。

2.時代背景
中央アジアを中心に生活していた遊牧騎馬民族は人口増加と天候異変で生活が圧迫され生活資料を求めて南下するようになりました。特に匈奴は有力で紀元前5~6世紀には漢民族にとって脅威となりました。この頃の中国は春秋戦国時代の中ごろであり、北方東は匈奴、西はスキタイ騎馬民族が中国、ペルシャ沿岸へと一斉に南下した時代でした。特にシルクロード成立と発展には匈奴を見逃すわけにはいきません。秦の始皇帝時代、国家財政をつぎ込んだ万里の長城は匈奴の攻撃から生活資料を守るために築いた防御の城でした。

3.消極外交から積極外交への転換
 それでも、城を越えてきた者には絹、布、錦、金具、楽器、黄金、穀物を贈与するという対応をしていました。物資を与えれば北に引き上げていくので、国力を浪費してまで武力で対抗しないという消極的政策でした。匈奴は点在するオアシス部族国家に目をつけて居座ったことと中国の絹の需要が西方の諸国の需要の高まりによってある意味シルクロードの伏線が成立していたと考えられます。シルクロードがはじめて中国人に知られたのは張騫の報告がされてからです。戦乱を制したのは漢の皇帝でした。武帝はオアシス国家の一つ大月氏に張騫を派遣します。『史記』では大月氏は匈奴に追われ、その後も匈奴を恨みに思い、西域のどこかで生活しているという漠然としたものでした。張騫の遠征は実に紀元前139年~126年までの13年に及ぶ旅でした。大月氏は実在し、存在を確認して帰国しましたが、大月氏にはもう対抗意識はありませんでした。武帝への報告が実利となるよう付け加えて張騫が「西域には多くの国があり遥か西方に伸びている道がありました。」と述べたといいます。そこで紀元前119年に第二次西域遠征が決行されます。張騫の情報から匈奴と対抗意識の強い烏孫と組む計画でした。この計画も失敗に終わりますが、張騫の機転で代わりに良質の馬(騎馬戦用)と烏孫の使者を同行させます。このとき差し出されたのが西域の名馬でした。さらに張騫が他のオアシス国家にも使者を派遣しています。コータン(東トルキスタン)、大宛(フェルガナ)、康居(ソグド)、大月氏、大夏(バクトリア)、安息(パルチア)、身毒(インド)などです。オアシス国家からの使者には多くの奢侈品(絹)を持たせて帰国させました。これが朝貢貿易の始まりとされています。武帝は匈奴に対抗するため西域経営に積極的に関わっていきます。中でも大宛は名馬の産地でした。騎馬を朝貢しない大宛に対し大遠征を敢行します。率いるのは李広利でした。

4.李広利の遠征
2回の遠征で大宛攻略に成功し、汗血馬(名馬)数十頭、中馬以下3千余頭手に入れます。特に第2回(紀元前102年)の遠征軍は最大規模のものだったといわれています。戦闘員6万人、補給部隊数万人、ウシ十万頭、馬3万頭、ロバ、ラクダ、ラバ数万頭です。この移動がシルクロードでなされたのです。漢に対し、善馬を引き渡すことで和議が結ばれ、朝貢貿易がされるようになりました。何より重要なのは、李広利のプロパガンダが漢の強大さを西域諸国に知らしめたことです。特にタリム盆地をはさむ東トルキスタン南北の通路は完全に漢帝国の支配下になりました。匈奴との一連の戦いは騎馬民族(青銅器文化)と農耕中国(鉄器文化)の抗争という図式になります。それにしても漢は馬を使った騎馬戦に弱点があったことを匈奴もよく承知していたということです。

5.後漢の政策
その漢もやがて滅亡し、新をはさんで後漢が成立します。2代皇帝、明帝は積極外交を展開します。明帝は西域都護として、班超を亀茲(クチャ)に派遣します。31年間の長きに渡りました。これによりカスピ海以東50余国が服属し東西交流が復活します。特に注目したいのは、班超が部下の甘英をローマに派遣したことです。この計画は、パルチアの妨害で失敗しますが、記録に「西海に達する」とあります。これは地中海を指したものであるとされています。やがて、社交辞令として西暦166年時のローマ帝国マルクス・アウレリウスから使者が海路中国に来朝します。記録ではローマ皇帝に中国名、大秦王安敦と書かれました。このような経緯もあって東西交通路は次第に活発化します。シルクロードによってもたらされたものとしてぶどう、クローバー、ザクロ、胡桃、胡瓜などの物資ばかりではなく音楽、楽器、舞踊、宝石、ガラス、奇獣などの奢侈品や文化についても伝播しました。宗教もその一つです。

6.その後の匈奴
中央アジアで存在感を放った匈奴が、一番勢力を持ったのは、冒頓単于(ボクトツゼンウ)のときであったとされています。しかし武帝の積極策で紀元前54年東西に分裂します。東匈奴は前漢に服属しますが、西匈奴は東匈奴と前漢によって滅亡します。しかし、西暦48年に反乱がおき、後漢によって南北匈奴に分裂します。南匈奴は後漢に服属しますが、北匈奴は西域に逃げ延びます。やがて北匈奴は西域でフン族と名前を変えるのです。このフン族こそヨーロッパでゲルマン民族の大移動を促した要因とされています。ご存知のようにゲルマン民族の大移動によって、皮肉にも時のローマ帝国が滅亡します。シルクロードをはさんだ東西の大帝国に関わった匈奴は歴史的役割を果たしました。

7.まとめ
 少し、日本についてお話しておきます。シルクロードの終着は日本であるとの説があります。奈良の正倉院にはシルクロードを経由して伝来したものが残されています。538年(一部異説あり)とされている仏教伝来もその一つかも知れません。それまでは自然崇拝であり、目に見えないものを崇めていました。仏像は当時の人たちにとって驚きであったに違いありません。経典と仏像の伝来はそれまでの日本の文化を大きく変え、現在に至っています。日本の宗教は神仏が共存するという文化もこの頃からが起源です。シルクロードの東西交流は大きく日本にも関わっているのです。
 話を戻しましょう。以上は一般に知られているシルクロードの話でした。シルクロードの行程は東から長安⇒甘州⇒敦煌⇒(北行路)と伊吾(ハミ)⇒焉耆(カラシャール)⇒亀茲(クチャ)⇒疏勒(カシュガル)(南行路)敦煌⇒于闠(ホータン)⇒疏勒(カシュガル)からサマルカンド⇒クテシフォン⇒アンチオキア⇒コンスタンチノープル⇒ローマです。当時、点在していたオアシス国家を結んだまさに14000キロの旅路でした。ただ、シルクロードは他に2本の道があり、重要な地位を占めています。1本は北京からヨーロッパに伸びる遥か北の道です。これを草原の道といいます。匈奴が逃れた道です。ローマ皇帝の使者が訪れた道は、インド洋を横切る海の道でした。このように歴史を見る視点はその中に描かれた人物描写であったり、国の交流であったりします。今を形作った過去(歴史上の偶然か必然か)をこのような見方をすると興味が沸くのではないでしょうか。

奥村幸夫
(国際コミュニケーション学科 専任講師)