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英語についての雑感(国際コミュニケーション学科 髙野盛光)

研究室からこんにちは(短期大学)
 『「日本人と英語」の社会学』という1冊の本があります。書いたのは寺沢拓敬。関西学院大学の新進気鋭の英語研究者です(と専門外のわたしが持ち上げてもご本人にはかえってご迷惑かもしれないけれども)。サブタイトルに「なぜ英語教育論は誤解だらけなのか」と付いているように、日本におけるさまざまな英語言説を取り上げてデータ分析により検証をおこない、その中に間違いがいかに多く含まれているかを明らかにした労作です(重ねて言いますが、専門外のわたしが持ち上げてもご本人にはかえってご迷惑かもしれないけれども)。終章において同書の結論を整理したものからいくつかを取り上げてみます。
 
1.趣味での使用であれ仕事での使用であれ英語を使っている人は「日本人」全体から見ればごくわずかであることがわかった。また、世代・教育レベルとジェンダーが相互作用することで、英語使用に違いが生まれていることもわかった。つまり、若年層・高学歴層・専門職者の女性に友人付き合いや趣味的な英語使用者が多い一方で、同男性には仕事やネットでの英語使用が特に多いという特徴が見られた。

2.(英語使用の カッコ内:髙野)必要性を持っている人は日本人全体から見るとまだごく一部に限られるとわかった。

3.英語使用の必要性は決して増えておらず、むしろ2000年代後半には減少している

4.英語力には実質的な賃金上昇効果がないか、あったとしても比較的小さいレベルのものに限られることがわかった。

5.たとえ英語力やその他の変数(年齢・学歴・職種・経験年数等)が同一だったとしても、男性の方が英語力を活かす機会の面で明らかに恵まれていることがわかった。(寺沢2015:245-247)

 これらの内容とTOEICとの関わりについて触れる前に標本調査における「有意差」について紹介しておきましょう。有意差とは簡単に言えば「意味のある差」のことで、「有意差がない」とは「意味のある差が認められなかった」ことを意味します。時折「有意差がない」を「意味がない」と(基本的リテラシーの欠如からか詐術であるのかはわかりませんが)同義に捉えて「有意差がないのでAとBとは同じである(同じ効果がある)」ととんでもない主張をしている論文を見ることがあります。みなさんはリテラシーを磨いてそのような言説にはだまされないようにしましょう。先に「有意差がない」とは「意味のある差が認められなかった」ことを意味しますと書きました。これは言い換えればある調査においては「差があるとも差がないとも言うことができない」=「偶然であった可能性を棄却できない」ということです。

 TOEICは現在英米加豪の4カ国で用いられている英語からそれぞれ25%ずつの割合で出題されています。この4カ国に共通している点(当然いろいろありますけれども)は英語ネイティブの国であるということです。つまりTOEICを、あるいはTOEIC対策を目的とした授業を通して学ぶ/学んでしまうのは英語ネイティブの使う英語である「可能性」が高いということです。
 
 さらにTOEFL/TOEICを教育現場に導入する問題点について鳥飼玖美子(立教大学名誉教授)は、試験には「集団基準準拠テスト」(TOEFL/TOEICはこちらの代表例)と「目標基準準拠テスト」の二種類に大別できるとした上で、その問題点を指摘しています(鳥飼2018:146-161)。そこで挙げられている「集団基準準拠テスト」の特徴(目標基準準拠テストとの違い)の1つに「テスト内容と、受験者が受けてきた教育とは直接的な関係がない」ことを挙げています(鳥飼2018:149)。このブログを見ている方の中には「でも大学でTOEFL/TOEIC対策の授業受けたよ」、「○○大学ではTOEFL/TOEICに力入れているよ」と大学における現状をしっかりと把握している方もいるでしょう。現状認識としては間違っていません。そうした大学は存在していますし、これからも増える可能性はあります。しかしながら事実認識としては大いに問題があります。大学で受けた教育を評価するためにTOEFL/TOEICが誕生したのではなく、大学の中に(理由は様々であるが)TOEFL/TOEICに合わせた授業をおこなうところが増加してきたというのが正しい認識です。TOEIC運営委員会の設置が1979年であり、日本ではその年の12月に第1回テストがおこなわれたことが国際ビジネスコミュニケーション協会(日本でのTOEIC事業を展開する団体)のサイトで確認できます。裏を返せばそれ以前には大学とTOEICとの接点はなかったということです。これは通訳士試験(通訳士自体は国家資格の1つです)等の資格試験でも一緒です。それらの「集団基準準拠テスト」は大学での学びとはそもそも一切関係はないのです。ちなみに公立学校の教員になるためには各都道府県等が行う教員採用試験に合格する必要がありますがこれも「集団基準準拠テスト」です。大学における教職課程とは「教員採用試験対策」のための課程ではありません。教員には大学卒業相当の学識が必要との理念の元に学術的素養を身につける課程が教職課程です。
 
 誤解のないように言っておきますが、わたしはTOEFL/TOEICや通訳士試験(先にも書いたようにこちらは国家資格です)が社会的に有用ではないとか役に立たない等と言っているわけではありません。現時点では(そして今後も)本質的なところで小中高や大学での教育とは無関係だと主張しているのです。民間試験を安易に大学教育と結びつけることへの批判は先に挙げた鳥飼(2018)でも言及されていますし、そこではTOEFL/TOEIC導入を大学等へ強く要望してきた、また、採用等で活用してきた当の企業自体が困っていると報道されていることにも触れています。TOEIC/TOEFLを目的として編成された英語教育課程と大学で提供すべき英語教育課程との間には径庭があります。専門学校と大学との間には大きな違いがあるのです。これに関しても誤解をしてもらっては困りますが、専門学校と大学との間には設置目的に違いがあると主張しているのであって専門学校と大学とのどちらが上かなどと主張しているのではありません。ときおり「短大も専門学校も世間の評価は同じだ」ととんでもない事を口にする大学教員がいますが不見識も甚だしいです。併修制度を活用して専門学校に通いながら通信制大学で学ぶ方がみえます。大手の専門学校グループの1つに麻生専門学校グループがあります。そのサイトでは明確に「専門学校と大学は、教育目標が全く違います」と書かれています。そのすぐ後に「専門学校卒業者は短大や大学と同じと見なされます」とも書いていますので「えっ?」とも思われるかもしれません。しかしよく見ると専門学校の就職における「実践力」の高さをアピールしているものであり、教育目標・教育内容が異なることを踏襲した内容であることはわかるはずです。短大よりも企業からの評価が高いこともあるとの記述も見られます。就職という1点を見ればそのように主張することも分からなくはありません。しかし何度も繰り返しになりますが、そのことと大学が学術機関であることとは何ら関係はありません。

 本学の寺澤陽美先生が4月のブログで「みなさんの先輩の中には、コツコツ努力を続けて在学中にTOEICを300点もアップさせて留学の夢をかなえた人、大幅スコアアップし外資系企業に就職した人もいます」と書かれています。そのように成果を上げた先輩がいることは紛れもない事実です。しかしそれは誰の上にも等しくもたらされるものではなく冒頭で指摘したように厳しい現実があります。またTOEIC900点越えの学生に翻訳の手伝いをお願いしようにも「耐え得る」レベルの訳になっていないとの指摘もあります(藤原康弘・仲潔・寺沢拓敬編2017:171)。TOEICを昇格の基準としている企業においてもTOEICだけで昇格を決定していることはないでしょう。「英語に限らず、在学中あるいは卒業後も、みなさんにとって興味のあることや仕事や生活で必要だと感じることについて、ぜひ学びをすすめ」と寺澤先生は書かれています。つまり教養教育を含めた英語以外の大学教育にまともに取り組まなければ、TOEICだけでバラ色の人生が拓けるわけではなく、また、企業の求める「役に立つ教育」だけでは実際に社会に貢献できる実力は身に付かないということです。

 「教育職員免許や日本語教員資格、保育士資格についてはどうなの?」と思った方がいるかもしれません。なかなか鋭いです。これらの免許、資格については大学に教育を経ずに取得する道筋は確かにあります。しかしながら大学において免許、資格に関する課程や講座を開設するためにはそれぞれ公的に満たすことを求められる基準がありそれをクリアしなければ開設できません。大きな違いがあるのです。
 
 TOEIC/TOEFLが英語教育の現場に導入された経緯、その問題点、今後の課題についてはここまでに引用してきた文献、さらにはこのブログの最後にあげる参考文献で詳細に分析・検証や提言がなされています。本学において英語力を磨くとともに今後英語教育が、英語そのものがどのように移ろっていこうとしているのかについて、ぜひそれらの文献をみなさん自身が読んだ上で考えてみてください。
 
 参考文献
 
江利川春雄・斎藤兆史・鳥飼玖美子・大津由紀雄(2014)『学校英語教育は何のため?』ひつじ書房
藤原康弘・仲潔・寺沢拓敬編(2017)『これからの英語教育の話をしよう』ひつじ書房
永井忠孝(2015)『英語の害毒』新潮社
大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史・鳥飼玖美子(2013)『英語教育、迫り来る破綻』ひつじ書房
施光恒(2015)『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』集英社
斎藤兆史・鳥飼玖美子・大津由紀雄・江利川春雄・野村昌司(2016)『「グローバル人材育成」の英語教育を問う』ひつじ書房
寺沢拓敬(2015)『「日本人と英語」の社会学 なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』研究社
鳥飼玖美子(2016)『本物の力』講談社
鳥飼玖美子・大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史(2016)『英語だけの外国語教育は失敗する 複言語主義のすすめ』ひつじ書房
鳥飼玖美子(2018)『英語教育の危機』筑摩書房