「子育てバテ」していませんか?(国際コミュニケーション学科 首藤 貴子)
研究室からこんにちは(短期大学)
2024年の夏、名古屋では連続猛暑日が観測史上最長を更新しました。8月末の今もまだ暑い日が続いていますので、夏バテには気をつけたいものです。
ところで、お盆休みは、懐かしい人に再会する機会が多いのではないかと思います。私も久しぶりに親戚の集まりに顔を出しました。食事をしながら、たわいもない話で盛り上がります。生きてきた時代も仕事も生活も皆異なるからこそ、時におもしろい展開を見せることがあります。たとえば、こんな話題です。
親戚のAさんが、「電車に乗ったら、隣の人が突然弁当を食べはじめた」としかめっ面で話しはじめました。すかさず親戚Bさんが、「何かされたの?」とたずねます。そうではないのです。よくよく聞いてみると、「電車で弁当を食べるという行為が、隣にいる自分を不快にした」というのです。もちろん、不快だからといって弁当を食べている人に何か言ったわけではありません。でも、電車で弁当を食べる人を見かけただけなのに、Aさんの心はネガティブな方向に引きずられています。
Aさんの口から続けて出てきたのは、「みっともない」「躾がなってない」という言葉でした。Aさんは「常識」や「世間体」を大切にして生きています。それに対して、親戚CさんやDさんは、「朝から何も食べてなかったのでは?」「大好物のおかずでどうしても我慢できなかったのでは?」など、電車で弁当を食べるという行為の解釈を試みます。そして、「電車で弁当を食べるか否か」は、迷惑をかけない限り、その人の自由であって、Aさんが関与できない領域なのではないか、と問いかけます。困っている人を見かけたら放っておくことができない「優しい人」との評されるAさんです。隣の人の言動がわが事のように感じるのでしょう。
結局この話題は、「電車で弁当を食べる」という他人の行為を自分の内に引き取ることはやめて、他人の領域を尊重することや他人と自分の領域には境界線があることを意識してみてはどうか、というAさんへの提案で帰結しました。
この提案は、赤の他人との関係性に限ったことではなく、親子の関係性を問い直す視点としても示唆的です。
今、「良き子育てとは」といった情報が溢れています。商業ベースで創作されたであろう情報も少なくありません。夏休み、親は朝昼晩と栄養バランスを考慮した食事を用意し、宿題に付き合い、習い事と塾に送迎し、キャンプや旅行など様々な経験をさせる。世間では、わが子のために親の時間とお金を使うことが推奨されています。教育産業による人工的な環境が、子どもが「やってみたい!」と言う前に大人がお膳立てし、子どもが「困った!」と言う前に大人が手を差し伸べるような場だとしたら、それは子ども自身の主体性を必要としない世界です。たとえば学校の成績は、人生に位置づけてみれば極々小さなことがらです。それを獲得するために、その子どもの思いや意志、主体性の育ちを蔑ろにされる環境においているなら、まったくの本末転倒です。子どもの主体性が尊重されるべき子どもの領域に介入することは、親や私たち大人がもっと自制すべきではないでしょうか。
夏休み、わが子の世話に疲れて、「子育てバテ」しているママパパは多いです。そもそも子どもという存在は、自分の幸せ以上に、親の幸せを願うものです。「あなたのために」と過剰に子どもの世話を焼くよりも、親自身が自分をもっと大切にして、自分の人生をもっと正直に生きてほしい。「世間体」や「常識」に振り回されず、子ども発信の小さな声に耳を傾けたいものです。
なお、次回9月7日開催の《ASUオープンルーム》は、「子育て子育ちおしゃべり会」と題して、対話形式ですすめる予定です。親として、または、子どもとして、この夏をふりかえることも一案です。本学学生の皆さん、どうぞ気楽にご参加ください(詳細は、通教オンラインで)。
ところで、お盆休みは、懐かしい人に再会する機会が多いのではないかと思います。私も久しぶりに親戚の集まりに顔を出しました。食事をしながら、たわいもない話で盛り上がります。生きてきた時代も仕事も生活も皆異なるからこそ、時におもしろい展開を見せることがあります。たとえば、こんな話題です。
親戚のAさんが、「電車に乗ったら、隣の人が突然弁当を食べはじめた」としかめっ面で話しはじめました。すかさず親戚Bさんが、「何かされたの?」とたずねます。そうではないのです。よくよく聞いてみると、「電車で弁当を食べるという行為が、隣にいる自分を不快にした」というのです。もちろん、不快だからといって弁当を食べている人に何か言ったわけではありません。でも、電車で弁当を食べる人を見かけただけなのに、Aさんの心はネガティブな方向に引きずられています。
Aさんの口から続けて出てきたのは、「みっともない」「躾がなってない」という言葉でした。Aさんは「常識」や「世間体」を大切にして生きています。それに対して、親戚CさんやDさんは、「朝から何も食べてなかったのでは?」「大好物のおかずでどうしても我慢できなかったのでは?」など、電車で弁当を食べるという行為の解釈を試みます。そして、「電車で弁当を食べるか否か」は、迷惑をかけない限り、その人の自由であって、Aさんが関与できない領域なのではないか、と問いかけます。困っている人を見かけたら放っておくことができない「優しい人」との評されるAさんです。隣の人の言動がわが事のように感じるのでしょう。
結局この話題は、「電車で弁当を食べる」という他人の行為を自分の内に引き取ることはやめて、他人の領域を尊重することや他人と自分の領域には境界線があることを意識してみてはどうか、というAさんへの提案で帰結しました。
この提案は、赤の他人との関係性に限ったことではなく、親子の関係性を問い直す視点としても示唆的です。
今、「良き子育てとは」といった情報が溢れています。商業ベースで創作されたであろう情報も少なくありません。夏休み、親は朝昼晩と栄養バランスを考慮した食事を用意し、宿題に付き合い、習い事と塾に送迎し、キャンプや旅行など様々な経験をさせる。世間では、わが子のために親の時間とお金を使うことが推奨されています。教育産業による人工的な環境が、子どもが「やってみたい!」と言う前に大人がお膳立てし、子どもが「困った!」と言う前に大人が手を差し伸べるような場だとしたら、それは子ども自身の主体性を必要としない世界です。たとえば学校の成績は、人生に位置づけてみれば極々小さなことがらです。それを獲得するために、その子どもの思いや意志、主体性の育ちを蔑ろにされる環境においているなら、まったくの本末転倒です。子どもの主体性が尊重されるべき子どもの領域に介入することは、親や私たち大人がもっと自制すべきではないでしょうか。
夏休み、わが子の世話に疲れて、「子育てバテ」しているママパパは多いです。そもそも子どもという存在は、自分の幸せ以上に、親の幸せを願うものです。「あなたのために」と過剰に子どもの世話を焼くよりも、親自身が自分をもっと大切にして、自分の人生をもっと正直に生きてほしい。「世間体」や「常識」に振り回されず、子ども発信の小さな声に耳を傾けたいものです。
なお、次回9月7日開催の《ASUオープンルーム》は、「子育て子育ちおしゃべり会」と題して、対話形式ですすめる予定です。親として、または、子どもとして、この夏をふりかえることも一案です。本学学生の皆さん、どうぞ気楽にご参加ください(詳細は、通教オンラインで)。